インタープレスジャパン

自己紹介というか...野村昌樹

更新:2006.11.23
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【自己紹介というか...】

わけのわからないうちに、歳を重ねてしまった著者が、自分のことを整理するつもりで書いた長ったらしいところの私の回想文?:時間のある方は適当に読んでやってください。

Blog:http://blog.goo.ne.jp/interpress
FaceBook:https://www.facebook.com/masaki.nomura.336



インタープレス・ジャパンの主な企画や執筆は、わたくし野村昌樹が中心で制作しています。

何でも屋です。執筆、写真撮影、編集、制作、販売をすべて一人でやっています。人員のいない零細企業は大変です。時間がいくらあっても足りません。しかし、全行程を一人でやれる悦(よろこ)びもひとしおです。 私の名前の聞いてピンときた人は、失礼ながら中年以上のお歳の方でしょう。そうです、あの有名?な肉体派の歌手と名前(本名は野村正樹)は一文字違いますが、偶然にも同じ歳です。誕生日は残念ながら私の方が、23日ほど後でした。“そのお方”と比べて私の方は身長6センチも低いのですが、体重は同じ83キロです。しかし体重は同じでも中身は“あのお方”は筋肉、私は脂肪とぜい肉、運動能力の差は著しい事でしょう。

野村昌樹の出身地出身地は、鎌倉市です。

 生まれたのは、現在の鎌倉市役所の真向かいでスターバックスの駐車場あたりです。駅から3分のところにあるスターバック今は、コーヒー店になっていますが、以前は、有名な漫画家の横山隆一さん宅でした。プールのある広い庭で、近所のよしみで中で遊ばしてもらいました。弟子の若い人たちや、いろんな人たちが出入りしていましたが、その割には静かな雰囲気でした。 時々、漫画が描(か)いてあるセル画を頂きましたが、子供は価値がわからないので、わら半紙の代わりに、クレヨンで塗り絵などして捨ててしまいました。今にして思えば勿体(もったい)ないことをしました。
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Main Point


諏訪神社参道の跡石碑 
 昭和30年頃の鎌倉は、観光地というより避暑地でした。観光客はあまり見かけませんでいた。高い建物もなく、緑があふれていました。海岸の砂浜も今よりずっと幅があり、確か松の木が少し生えていました。鎌倉駅西口から少し歩いたところに今は紀伊国屋スーパーがありますが、以前そこはテニスコートがあり、皇太子と美智子様が時折、お忍びでテニスをしていました。 鎌倉市役所あたりは、諏訪神社があり、境内に沼がありました。絶好の子供たちの遊び場所で“ザリガニ捕まえ”が流行(はやって)していました。

左に写真の碑、右にスターバックス
鎌倉市役所前:昔は御成中学があり、トンネルはなく行き止まりでした。

勉強ダメ勉強まるでダメ

幼稚園は鎌倉五山の一つ円覚寺境内にありました。この幼稚園では季節ごとに宗教行事があり、荘厳な雰囲気が漂っていました。後になりますが高校は、同じく鎌倉五山臨済宗の建長寺が経営する鎌倉学園に入学しました。母方の実家は13代続く浄土真宗のお寺さん、何かのご縁でしょう。

 小学校は大正天皇の別荘だった御成小学校に入学しました。子供の時から勉強は大の苦手でした。あまりにも成績が悪いので、通信簿のに鉛筆でと書きたしてにして親に見せたところ、すぐにばれました。1と2しか取ってない息子が、いきなりを取るなんて、どんな親でもすぐに気付きます。先生と親の両方からコッピドク叱られました。
 美術と体育は特に苦手で、運動会と体育の授業は恐怖でした。いまでもしっかりと覚えています。小学校4年生の美術授業の出来事です。 美術室で同級生がポーズをとり、それを模写していた時のことです。  先生が生徒一人ずつ絵の出来具合を見てまわっていました。私のところにきて、私の描いた絵をのぞき込んだ瞬間!いきなりお腹(なか)を抱えて倒れ込みました。先生の背中が痙攣していた.....。

 倒れ込んだままの先生を見て、教室は騒然となっていました。先生の近くにいた生徒たちは、「先生!大丈夫ですか?」と声をかけて、おそるおそる顔をのぞき込みました。先生は腹を抱えたまま、私の絵を指さして一言「、ひどすぎる」 私の絵を見てあまりの可笑しさに倒れ込んでいたのです!私が生涯にわたって絵が苦手になった瞬間です。

 体育も“1”でした。どうして私はこんなに運動神経が悪いのか、子供心に自己嫌悪に陥っていました。鉄棒で逆上がりはできない、駆けっこはいつもビリ、球技はテンポが遅れてうまく取れない。何やってもうまくいかない、のろまでドジ。クラスにこんな子は1~2人いるでしょう。その一人だったわけです。
 特に、子どもにとって楽しいはずの“運動会”前日は、とても憂鬱(ゆううつ)でした。クラス対抗になれば、必ずみんなの足を引っ張ることになる.....。クラス全員のブーイングの嵐を想像してしまいます。自分は一生運動とは無縁だと思いました。身長はクラスで一番大きいのでついたあだ名は「ウド」。ウドの大木です。
 おまけに、“どもり”つまり吃音(きつおん)がありました。子供は残酷です。授業で指されて、答えるときにどもったりすると、恰好(かっこう)の標的にされてしまうのです。先生も一緒になって笑いました。対人恐怖のはじまりです。


円覚寺山門

臨済宗大本山
「円覚寺」



御成小学校
大正天皇のご用邸跡にある御成小学校入り口

格闘技との出会い。その後、19才のときに格闘技と出会うのですが、目から鱗、水を得た魚状態。何でこんなに自分の身体が動くのか不思議でした。身体を拘束していた鎧が、一枚一枚はずれていく感覚でした。あんなに運動神経が悪くみんなから“ドジ”というあだ名でみんなから呼ばれていた自分が、自由自在にリングの上で動き、拳は面白いほど相手をヒットする。たった3ヶ月の練習で、後楽園で開催された全国大会の試合に出させてもらいました。

習って1年たったある日、空手3段の方と他流試合をしました。相手は手も足も出ない状態でこちらは打ち放題。あまりにも相手が弱いのでかなり手加減しました。こうなると劣等感のリバウンドで止まりません。血気盛んなとき、高校に乗り込んで、散々いじめてくれた柔道家の体育教師を殴り倒してやろうと本気で考えていました。

その後も少林寺拳法、中国拳法、ボクシングと45才まで継続しました。他のスポーツは、趣味のレベルですがダイビングやウルトラマラソンなどを堪能(たんのう)しました。こんな経験からつくづく体育の成績と運動能力とは、まったく関係ないと痛感しました。むしろ成績をつけることで、他の生徒と比較され、教師から叱咤(しった)されることで子供によっては、筋肉が萎縮して動けなくなることもあるのです。学校の体育評価は、何のためにあるのでしょう?

 
 今は、座りっぱなしの仕事のおかげでただのメタボにナッテシマッタ~

空想の世界へ空想の世界へ

 小学校では...授業チャイムがなった瞬間、別世界にトリップしました。ほとんど毎日です。先生が何をしゃべっているかまったく脳にとどいていませんでした。しかし、寝ているわけではありません。自分の作った世界で遊んでいるのです。大体同じ光景で、細部にわたり鮮明に見えるのです。中学2年までこの強烈なイメージが継続しました。小説を書くの才能があればすぐにでも詳細なストーリーを書くことができます。正午、給食の時、キンコーンとチャイムが鳴るとなぜか“パッ”と意識が戻りしっかり食べて、午後3時ごろになって“ハッ”と我に返り、すぐに帰る支度をする、こんな毎日でした。背がクラスで一番大きかったので、席はいつも教壇から遠~いうしろの席。当時は、生徒数も多くひとクラスが52名もいて、紛れ込んでいれば先生には気付かれないと思っていました。後で、教壇に立つことになったのですが、上からだと本当によく生徒の様子がわかります。先生も大変です、私のような教えがいのない生徒がクラスにいて、頭の一つも思いっきり殴りたいと思っていたことでしょう。

 そんな事だから、成績の方はいつもどん底でした。
 ただ、本はよく読みました。特に、早川書房のSFシリーズが大好きで、小遣いをためては発売日に本屋に走ったものです。当時はTVで子供番組があまりなかったので子供は、外で遊ぶか、貸本屋で借りた漫画を読んでいました。子供向けの製品がほんとうに少なかったと思います。子供=お金がない存在という認識で、商業価値ゼロです。そんなわけで今みたいに子供用の本がたくさん販売されているわけでなく、いよいよ手元に読む本が無くなったので、父が持っていた文学全集も読みました。特に、三島由紀夫、谷崎潤一郎は淫靡(いんび)な雰囲気で、字の意味は半分理解できなかったけど、なにか奥に秘密の扉が見え隠れして、子供心にドキドキして読んでいました。


楽しかった中学校生活楽しかった中学生活

 子供心に中学校という新世界に入ったら、きっと勉強ができるようになるという変な確信がありましたが、努力無しでそんな上手いことゆくはずもなく、中学生になっても成績は相変わらず最低でした。この時代は、学歴競争社会の始まりで、中間、期末試験ごとに成績順位が書かれた紙が、廊下に張り出されました。当時、生徒数は一学年400人以上いて、何となく身分制度のようなものがありました。成績上位100番までの者は貴族みたいで、200番前後の真ん中は町民、300番以上は穢多(えた)、400番をこすと非人(ひにん)扱いのような雰囲気でした。注:穢多・非人は差別用語です。

 私のあまりの成績の悪さに両親は閉口して、家庭教師をつけたのです。無駄な出費をさせた両親には、すまない気持ちでした。
 当時、塾に通っている生徒はほとんどいません。内緒で通いました。  この先生-県立高校の社会教師-はとても変わっていて、勉強はあまり教えませんでした。私がギターに興味があるとわかったので、勉強よりもギターの弾き方を教えてくれました。また世界の国のことを面白く話してくれたりしました。生まれて初めて親身になって教えてくれた先生でした。ギターのコード進行を覚えていくうちに、不思議なことに数学の成績が上がりました。社会も“4”に。もちろん、音楽は“1”から“5”に上がり音楽の先生が驚いていました。私も生まれてはじめて“”というありがたい存在に出会いました。
 成績も上位100番に入りました。貴族階級になった訳です。そうするとまわりの雰囲気もがらっとかわり、同級生たちがたくさん話しかけてくれます。特にギターを弾けたので(当時、ギターを弾ける中学生は少なかった)、学年内でも有名になり女子生徒からもチヤホヤされました。別世界です。


-当時の給食は、アメリカの払い下げ物資で恐ろしくまずい粉末ミルクやコッペパンがでました-それとあの先が三つ叉になっているスプーンは何という名称なのでしょうか?韓国料理店で見かけました。


ご飯のかわりによくでたコッペパン -コッペパン-
※Pascoから転載




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地獄の高校生活地獄の高校生活

 「高校落ちたよ」玄関で靴を履いていた私に、母が暗い声で私に伝えました。受験結果を某県立高校まで見に行こうとした矢先でした。担任の先生が、私が見に行く前に恥をかかないよう配慮して母に電話で告げたのです。「げ~高校浪人!?」当時はあり得ないことです。
 血の気が引いていきました。中学の担任の先生が進路指導の際に、「君は希望校には入れる実力があるから大丈夫ですよ。このままのペースで勉強してください」先生のこの甘い言葉は、怠け者の私の耳には「勉強しなくていいよ、ドンドン遊んでいいよ」と聞こえました。お言葉通り遊んでいたら.....。このようになってしまった!その日の内に3者面談。先生も必死です。懸命に入れそうな高校を探してくれました。おかげで3次募集?していた私立鎌倉学園に空きがあって入れました。この学校は臨済宗建長寺が経営している学校で男子校です。当時は公立高校の方が人気があって、私立高校といえば栄光学園などの有名校を除いて簡単に入れました。

 当時、御成中学は進学校として実力があったおかげで、高校1年生のときあまり勉強しなかったのに、53人生徒がいるクラスで5番の成績でした。やはりここでも成績がいいと待遇が違いました。担任の先生も同級生も気を遣ってくれます。しかし、これは中学校の余熱が残っていたので一時的に成績がよかったのです。
 クラブ活動は運動神経が悪いことを忘れて、“アメリカンフットボール部”に入りました。自分なりにちゃんとしなくてはと思ったのでしょう。 二学期になり 急に勉強内容が中学の延長上から高校の内容になっていきました。 そのとたん成績は急落。たしかクラスでも後ろの方になってしまいました。あまりの急変に担任は心配して「家でなにかあったのか?身体の調子が悪いのでは?」と心配してくれました。

鎌倉学園
建長寺の横にある「鎌倉学園」の入口


建長寺山門
建長寺山門
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別世界へ (大学生活)

やはり浪人。みんなと逆の方向へ歩く
 
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