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昭和の歴史で綴る沖由也氏のパワフル履歴

BMW K1200R2006年モデルにのる沖氏




---Profile Data---
本名:沖由也(おきよしや)
ペンネーム:Joshua.Oki
住所:高知県四万十市名鹿
社名:(株)第三アートセンター
仕事:作家・画家・編集者
血液型:O型


履歴Index
幼児・学生時代  新米・社会人 編集者時代 高知へ Jターン
<0歳から23歳まで>
S14年(1939年)からS37年(1962年)まで。

出生から小・中・高・大の学生時代とアルバイト生活。
<24歳から28歳>
S38年(1963年)から
S42年(1967年)まで。

就職・サラリーマン、退職、アフリカ大陸オートバイ冒険旅行へ出発!
<29歳から34歳まで>
S43年(1968年)からS48年(1973年)まで。

編集長時代・結婚・出産・逗子移転・単身ニューヨークで生活(日本料理店のマネージャ)
<35歳から54歳>
S49年(1974年)からH5年(1993年)

編集生活に復帰、編集プロダクションの経営者になる。第三アートセンタ−社長時代。
<55歳から68歳>
H6年(1994年からH19年(2007年)
東京から高知県四万十市へJターンする。絵画制作に熱中する時代。
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【沖由也の履歴・目次】----------------平成19年(2007年)5月20日現在


幼児・学生時代・・・・24年間 
  • 出生・就学前・・・・◎昭和14(1939) 5月4日誕生
  • 小学生時代・・・・・◎昭和21(1946) 7歳(小学1年。吉野小学校。八幡小学校)
  • 中学生時代・・・・・◎昭和27(1952) 13歳(中学1年。世田谷区立八幡中学校)
  • 高校生時代・・・・・◎昭和30(1955) 16歳(高校1年。都立新宿高校)
  • 浪人生時代・・・・・◎昭和33(1958) 19歳(浪人)
  • 大学生時代・・・・・◎昭和34(1959) 20歳(大学1年。国立東京大学)〜。東北新社
新米・社会人になる・・・・3年間
  • サラリーマン研修生1年間・・・・・・・・・・・◎昭和38(1963) 24歳。日本電気
  • 退職。フリーター(自由業)の時代・・・・・・◎昭和39(1964) 25歳。学研
  • テレビ・映画プロダクションの時代・・・・・◎昭和40(1965) 26歳。TBS
  • 新米「冒険家」になる・・・・◎昭和41(1966) 27歳〜。オートバイでアフリカ冒険旅行。日刊スポーツ新聞社。日刊スポーツ出版社。毎日新聞 約2年間
編集者になる・・・・5年間
  • 出版企画・編集プロダクションの編集長時代・・◎昭和43(1968)29歳〜。河出。中央公論
  • 結婚・出産・育児の時代・・・・・・・・・・・・・・・・・・◎昭和46(1971) 32歳
  • ニューヨークで新米・料理店経営者になる・・・・半年間
  • 逗子移転後、単身ニューヨークで生活。日本料理店のマネージャー時代・・・◎昭和48(1973) 34歳
編集プロダクションの経営・・・・20年間
  • 出版企画・編集生活に復帰した時代・・・・・・・・・・・・・◎昭和49(1974) 35歳〜
  • 編集プロダクションの経営者時代が始まる・・・・・・・・・◎昭和51(1976) 37歳〜
  • 第三アートセンター社長時代が始まる・・・・・・・・・・・・◎昭和54(1979) 40歳〜
高知県へJターン。絵画制作に熱中する時代・・・・13年間
  • 高知県四万十市(旧中村市)名鹿へ事務所移転・・・・・・・・・・◎平成6(1994) 55歳〜
  • 出版編集から「問題語評論」と「絵画制作」に専念・・・・・・・・・◎平成12(2000) 61歳〜
  • パソコンとハンディカムと絵画の時代・・・・・・・・・・・・・・・・・・・◎平成17(2005) 66歳〜

<著書・訳書など>
(1)『燃えろ! 白いアフリカ』1967 (2)『日本ピラミッドの謎』1975 (3)『神武天皇=徐福の謎』1977 (4)『ビジネスマンのための開き直り健康法』1988 (5)『問題解決強化書』1991(6)『ダイナミック自己啓発法』1992 (7)『ニュートンの知恵』1994 (8)CD『アフリカ大陸オートバイ冒険旅行』2005  ※ほかに、小説・実用書・女性週刊誌の代筆・アンカー、テレビ・雑誌の取材・撮影、漫画の立案、図鑑・事典・全集の構成・執筆・撮影・イラストなど。

【沖家の家族構成    ●は死亡(2007年5月現在)。

 
 兄弟は腹違いを入れて、8人以上になる。「以上」という意味は、父・為由がロンドン勤務時、
「現地妻」との間に、子(娘?)が「1人以上いる」、と確実視されているためである。

●父・沖為由:1885・3・3〜1958・4・28。73歳死。高知県四万十市(旧・中村市)出身。
一橋大学(旧・東京商大)卒。商社(丸石商会。ロンドン支店)、英語教師など。

●母・沖千枝:1900・4・28〜1961・2・24。61歳死。後妻。熊本県八代出身。

●(1)長女・岡添博子(1914〜1996。82歳死。為由の先妻マサ(24歳死)の娘。徳助の妻。2男2女。ちなみに、このマサ(岡添政)は、宿毛出身で、林譲治(林有造の息子。吉田茂のいとこ筋で、副総理を務めた)の姻戚である。譲治は父の友人だった。

○(2)次女・附柴千津:1925・10・7〜。公認会計士・正躬妻。3女。仲人は林譲治。

○(3)三女・百瀬美津:1927・6・20〜。元東大史料編纂所教授・今朝雄妻。
   歌人(俳句雑誌『般若』主宰)。1男1女。

●(4)長男・沖由朗:1929・10・13〜1936・8・22。7歳病死。

●(5)次男・沖祐之:1932・6・4〜1996・2・17。64歳死。東大理工科卒。カメラ設計(リコー35など)、ニューヨークで日本料理店、ロサンゼルスで不動産業。無子。

○(6)三男・沖恒夫:1936・8・13〜。東京外語大仏文科卒。詩人(詩集『メランジュ』)。  印刷所、翻訳、警備員。1女。

○(7)四男・沖由也:1939・5・4〜。東大教養学科アメリカ分科卒。日本電気、フリーランサー(テレビ、女性週刊誌、新聞、映画、セールス)、翻訳(テレビ洋画)、アフリカ冒険、出版企画・編集専門会社・第三アートセンター社長、趣味は絵画。2女。孫なし。ペンネーム:永井利秋、大木一也、弘瀬雄、Jioshua Okiiなど。

○(8)五男・沖貢:1943・1・18〜。都立園芸高校卒。カナダ・トロント在。レタリング、看板業。
トロント日本人会の幹事。4男1孫。

 

幼児・学生時代−0歳から23歳まで−

昭和14年(1939)和歌山県有田市箕島生まれ

  • 8人兄弟姉妹の四男として和歌山県有田市で生まれる。父の沖為由は、当時としては珍しい某商社でロンドン勤務。その後、英語教師となる。父が高知県中村市出身(現;四万十市)だった縁で55歳の時に高知へ移住することになる。
◆出来事=5月、ノモンハン事件/9月、独軍、ポーランド侵略。第二次世界大戦勃発/日本では、前年3月、東條英機首相が、国家総動員法を制定。

昭和15年(1940) 1歳。親子7人で、和歌山に1年。

  • ミカンの食べすぎで黄疸になった、という話は、ややマユツバ。
◆ 出来事=9月、日独伊三国同盟/10月、大政翼賛会発足/11月10日、紀元2600年記念祝典。皇居前広場に5万人。

昭和16年(1941) 2歳。東京都世田谷区奥沢の二階家に移転。東京に3年

  • このころの記憶は皆無。まさか、日本が大国アメリカに戦争を仕掛けていたとは・・・・。
◆ 出来事=国民学校誕生/12月、真珠湾攻撃=太平洋戦争始まる。

昭和17年(1942) 3歳。このころの記憶もない。

  • 全世界が大殺戮時代に突入していることも、日本が壊滅し始めていることも、知る由もなかった。
◆ 出来事=1月、ユダヤ人1100万人の殺害開始。食塩の配給実施/2月、衣料切符制実施/6月、ミッドウェイ海戦で敗北。以後、負け戦続く。

昭和18年(1943) 4歳。1月、弟・貢生まれる。

  • 負け戦が続いていても、親は「産めよ増やせよ」だったらしい。思えば、祐之兄は五・一五事件の年、恒夫兄は二・二六事件の年、私は世界大戦勃発の年に生まれた。とすると、私たち兄弟は、「天皇の赤子(せきし)」だったとも言えるし、情報閉鎖時代の「祝福されない子」だったとも言えるだろう。
◆ 出来事=2月、ガダルカナル放棄/9月、イタリア、無条件降伏/10月21日、出陣学徒壮行会。明治神宮外苑競技場で。

昭和19年(1944) 5歳。戦況悪化のため、父・姉3人を東京に残して疎開する。

  • 母と兄弟4人の5人で、母の郷里・熊本県八代に疎開した。思えば、この2年間の疎開のおかげで、東京大空襲の被害(原爆なみの死亡者)を免れることができた。
◆ 出来事=6〜8月、サイパン、グアム、テニアン全滅/6月、疎開命令。連合軍ノルマンディー上陸/11月、B29の空襲本格化。1回200機以上。

昭和20年(1945) 6歳。崖と水田の間の二階家、

  • 自宅前の公園と川、桑畑の広がりやグミの味、尼さんの寺、サーカスのテント、誉められた絵日記、などの断片的な記憶。

◆ 出来事=3月、東京大空襲。台東・墨田・江東・江戸川で約5万発の焼夷弾。死者8万人/4月、新宿・豊島・文京・渋谷で空襲。米軍、沖縄上陸。ヒトラー自殺/5月、独、無条件降伏/8月6日、広島、9日、長崎に原爆投下/8月15日、ポツダム宣言受諾、敗戦/10月、国連発足。


小学生時代
 敗戦による食糧難や生活苦は、幼児の心を苦しめたりはしない。むしろ、助け合いや連帯感や友情、あるいは努力・勤勉の意味などを教えてくれる。そして、大人の行動(戦争責任も含めて)は、反面教師として、小学生の批判精神を育てたように思われる。ちなみに、私は「終戦」という無責任な言葉が嫌いである。当時の日本軍および日本国民は、明らかに「大東亜戦争・侵略や真珠湾攻撃を仕掛けて、敗れた」。だから、意識してでも「敗戦」という言葉を使わないと、真実の歴史を隠してしまうことになる、と考えている。


昭和21年(1946)7歳(小学1年)。4月、熊本県八代の吉野小学校に入学。

  • 敗戦後、第1号の入学生となる。4〜5キロ歩いて通学した思い出がある。夏、姉2人が迎えに来て、東京へ戻り、以前暮らしていた世田谷区奥沢で家族が再会した。2学期から、世田谷区立八幡小学校に転校した。東横線の自由ヶ丘・田園調布の間にある線路沿いの学校で、校庭に桜の大木。担任は佐藤精先生(ひげのヤギ先生)。
◆ 出来事=1月1日、天皇の人間宣言/5月、第1次吉田内閣発足/5月、極東軍事裁判開廷/7月、ビキニ原爆実験/11月3日、日本国憲法公布。

昭和22年(1947) 8歳(小学2年)。

  • このころから、じんましんを発症。顔が腫れて登校できないこともあった。母が喘息もちだったので、アレルギー体質が遺伝したらしい。貧乏ともども「不条理認識」の始まり。
◆ 出来事=1月、GHQがゼネスト中止命令/7月、菊田一夫『鐘の鳴る丘』、近江俊郎『山小屋の灯。ラジオ娯楽の全盛/8月、インド独立宣言。

昭和23年(1948) 9歳(小学3年)。

  • 上野動物園へ遠足。このころ、二階に寄宿していた森尾昇夫妻(父方の親戚)から「養子にならないか」と勧められたが、拒否した。日曜日、田園調布の平安教会で、「天にまします、われらの父よ〜」と唱えた記憶がある。
◆ 出来事=1月、ガンジー暗殺/5月、イスラエル成立=第1次中東戦争/8月韓国(李承晩)、9月、北朝鮮(金日成)/12月、東条英機ら37人絞首刑

昭和24年(1949) 10歳(小学4年)。

  • 稲毛海岸・野猿峠へ遠足。このころは車酔いが激しく、バス旅行には「沖専用バケツ」が必要だった。だが、体質ハンデによって精神まで病的だったわけではない。むしろ、「畜生。いつか克服してやる」という“復讐心(呪い?)”を抱いていた。当時の私を、恩師(内田)はこう述べている(『あしあと』より)。「(乗り物に酔う)筆頭は何といっても沖君。見学の時ちょっと電車に乗っても青い顔をして一言も発しない。それでも「だいじょうぶか」というと、首をたてにふって・・・・」
◆ 出来事=5月、ベルリン封鎖解除(西独と東独成立)/8月、古橋・橋爪世界新記録/10月、中華人民共和国/11月、湯川秀樹ノーベル賞。 

昭和25年(1950)11歳(小学5年)。このころ、二部授業。

  • 新担任・内田太郎先生。観音崎灯台・高尾山・交通博物館へ遠足。11月からパン完全給食。
  • 田園調布でスピッツ2匹の散歩アルバイト(初)。
  • 漠然と、お金を稼ぐ喜びを知った。当時は貧しく、奥沢駅の売店で、漫画本1冊を万引きして、喉から心臓が飛び出しそうな体験をした。
  • 空缶に小遣いをためて納屋に隠し、「独立(家出)資金?」にしようと計画したこともある。また、性にも目覚め、『デカメロン』などの性風俗雑誌や春陽堂文庫などを盗み読んだ。
◆ 出来事=2月、米でマッカーシー旋風/6月、朝鮮戦争勃発=特需景気/8月、警察予備隊令公布/11月、NHKテレビ実験。

昭和26年(1951) 12歳(小学6年)。

  • 日光・鎌倉・東京港・大相撲見学。
  • 世田谷区玉川中町に家族8人で移転(平屋)。
  • 大井町線(のちの田園都市線)で等々力〜尾山台〜九品仏〜自由ヶ丘の4駅通学。
  • 転校生・上田誠君の母親に頼まれて、家庭教師。学力差をなくしてあげようという温情だったが、結果として2回目のアルバイトになった。
◆ 出来事=4月、マッカーサー解任。24日、桜木町事件で、99名焼死/9月、対日講和条約(日米安保調印)。

中学生時代
 恋に芽生え、情緒不安定な思春期だった。兄弟が6人もいると、「狭いながらも楽しい我が家」という気分にはなれない。孤独癖もあった。だから、できるだけ早く兄弟から離れて独立したい、そのためには、何か「大切な支柱」を得たいという気分が強かった。


昭和27年(1952) 13歳(中学1年)。

  • 新しくできた世田谷区立八幡中学校(九品仏)に入学。
  • 小学校から椅子を運んだり、校庭の麦畑を開墾したりした。等々力の自宅から2駅の距離を徒歩通学した。片道1時間弱を要したが、苦痛ではなかった。むしろ、歩きながら、何かを考えたり、作曲(?)したりしていたという記憶がある。

◆ 出来事=5月、皇居前で血のメーデー事件/10月、保安隊発足。

昭和28年(1953) 14歳(中学2年)。

  • 尾山台で私立小学生の家庭教師をした(3回目のアルバイト。翌年まで)。
  • 麻布中学に入りたい、との希望だった。
  • このころから、同級生の女子から寄せられたラブレターがトランク一杯くらい。新宿高校・東大など、進学や将来の夢を語り合う。手も握ら(れ?)なかった関係だったのに、噂が広がり、意地悪もされた(交換していたラブレターを教室の後ろに貼られる、など)。
  • 体は弱かったが、負けん気やプライドは強かった。休み時間が終わっても、運動場で取っ組み合いのけんかをしていて、窓から全校生に声援された記憶もある。

◆ 出来事=2月、NHKでテレビ放送開始、吉田首相、バカヤロー解散/3月、スターリン死去/7月、朝鮮休戦協定。

昭和29年(1954) 15歳(中学3年)。

  • 学年サークルで、■協同作品『散所太夫』のカラースライド・録音テープ(音楽つき)を作成。
  • 九品仏浄真寺の庫裏に集まって打ち合わせたりした。当時は学校と寺の間に池があった。
  • 物語を絵にして、スライドに1枚1枚、細筆とカラーインクで手描きした。後日、こうした細密画の経験がメシの種になった。
◆ 出来事=3月、第5福竜丸、ビキニ水爆被災/6月、防衛庁・自衛隊発足。

以下、の印は、私が研究・上演・執筆・作画・編集などをした「創造的な行動」を示す。
 

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高校生時代
 にきびコンプレックス、受験勉強の不安、アルバイト(労働)など。思春期は、「乗り越えるべき、美しいバラの柵」だったのか。不安と緊張の連続で、快い思い出は少ない。 

昭和30年(1955) 16歳(高校1年)・・・「広がる世界」

  • 東京都立新宿高校に入学(N子も)。
  • 等々力〜自由ヶ丘〜渋谷〜新宿と、2駅乗り換えて通学。電車酔いに悩まされた。
  • テニス部。新宿御苑に隣接していたので、塀を越えて弁当を開いたりした。赤線旅館も隣接していて、校庭によくコンドームが落ちていた。ちなみに、兄2人は赤線体験があるが、私はタッチの差で経験なし。
  • 新宿南口周辺には、映画館、馬券販売所などがあり、遊び人や浮浪者がたむろしていた。
  • 映画が好きだったので、3階の「テッペン座」によく通った。姉から映画の株主優待券をもらい、浅草や渋谷で2、3館回り、3本立て西部劇などを観て、1日中費やしたこともあった。当時、立川基地で砂川闘争が始まっていたが(〜57年)、まだ政治意識は薄かった。
◆ 出来事=4月、アジア・アフリカ会議/5月、ワルシャワ条約/8月、第1回広島原水禁世界大会/10月、社会党統一大会/11月、自民党結成。

昭和31年(1956) 17歳(高校2年)・・・「勉強と労働」

  • 文化祭で■加藤道夫作『思い出を売る男』を上演。自己表現には関心があった。
  • 同級生に、遠藤(中村)敦夫(のちに俳優、議員)、秋吉輝男(のちにヘブライ語教授)など。
  • このころから本格的にアルバイトを始めた。当時は設備投資ブーム(神武景気)で、苦学生には良き時代だった。
  • 放課後、秋吉と新宿紀伊国屋二階の洋書部に「勤務」した。5時から9時。等々力の帰宅は10時過ぎだった(翌年まで)。駅前の寿司屋で折り詰めを買い、喘息で悩む母への土産にしたこともあった(ついでに、喘息用の注射も頼まれたが)。
  • 夏休みには、新宿大久保のスポンジ工場で、「ブラパット(乳当て)」を製造手伝い。姉にもプレゼントした。家庭教師は、尾山台(男子中生)と学芸大学(女子中生)のかけもち。
  • このころ、担任から病院長の娘との養子縁組の話があった。一時はその気になり、ドイツ語を学び始めたが、断念した。
  • 美術部に入り、東京芸大受験を真剣に考えたりもした。美術部顧問の先生は、のちに個展を開くなどの精力家だったが、やや馴染めなかった。
◆ 出来事=2月、フルシチョフのスターリン批判/5月、売春防止法/10月、ハンガリー事件、スエズ(第2次中東)戦争/12月、日本の国連加盟承認

昭和32年(1957) 18歳(高校3年)・・・「仮説実験」

  • 俳優・石浜朗によく似た友人の同級生が代官山から通っていたが、自殺した。
  • また、兄・恒夫がビル屋上から自殺未遂の事件を起こした。ちなみに、このころ兄弟間で真剣に人生論を交わすことは少なかった。尾山台と学芸大学の家庭教師は続いていた。

◆ 出来事=1月、南極に昭和基地/6月、岸首相訪米/10月、ソ連、人工衛星スプートニク打ち上げ/11月、東海村原子炉始動。なべ底不況始まり、翌年末まで。
<ささやかな冒険旅行>
修学旅行の積立金を下ろして、仲間4人(秋吉輝男、沖、河村宗郎、半田敏雄)で、九州一周旅行を実行。東京〜京都〜出雲〜福岡〜鹿児島〜別府〜(船)〜広島〜大阪〜東京。約10日。宿泊はほとんど夜間鈍行列車の車中泊。京都は私の親戚宅、広島は秋吉の親戚宅に泊まった。桜島では小学校に泊めてもらった。みな好奇心があり、常識に反逆し、自由や冒険に憧れ、仮説を立てて可能性を試そうとする実験精神が旺盛だった。その後、秋吉は学者に、河村(柔道部のキャプテン)は商社マンに、半田は皮の輸入業者におさまった。その後、付き合い続けたのは、秋吉だけ。
浪人生時代
 受験に失敗しても、特に悲壮感はなかった。学歴偏重社会には、むしろ批判的だったからである。“反修学旅行”もそうだが、横並びの考え方や生き方には、意識的に反発していた。今も私は、「教育の真髄は批判精神だ。教師をも批判できる教育」を願っている。


昭和33年(1958) 19歳(浪人)・・・「与えられた休暇」

  • 東大受験に失敗。一期校のみで、二期校や私大は受験しなかった。
  • 父・為由が脳出血死。73歳。梅の木を剪定していて、梯子から落ちた。年齢が54歳離れていることもあり、感慨はなかった。「1人の老人の呆気ない死」という印象だった。
  • アルバイトに、毎朝、2駅先の九品仏まで行き、全酪連牛乳の配達をした。この店には、同級生の小島聖二君が勤務していた。配達は多摩川の土手まで。坂がきつかった。
  • 同級生・赤井(柴田)陽子がブラジルから帰国し、等々力に住んだことから、弟2人の家庭教師を頼まれた。
  • 一方、自宅では姉・美津の学習塾を手伝った。受験勉強は、静岡の学力増進会(通信添削)と等々力駅前の図書館。読書は、『出家とその弟子』『チャタレイ夫人の恋人』『西部戦線異状なし』など。映画館は、自由ヶ丘の南風座、武蔵野館など。映画『第三の男』は兄・祐之と観に行った。
◆ 出来事=6月、ドゴール内閣成立/7月、イラクでクーデター。共和制/10月、安保条約改定交渉開始=安保闘争開始。

大学生時代
 「収入」が増え、生活力や体力に自信ができた時代。エルビス・プレスリー、ジェームス・ディーン、怒れる若者(Angry Young men)などの影響もあって、社会批判・反逆の気分が強かった。とくに、60年安保によって、日本が「アメリカの植民地(妾、愛人)」になるのではないか、これから「奴隷の平和」を楽しめるのか、などと国家の針路を危惧していた。一方、宗教や美術などにも関心が強くなり、関係者によく論争を挑んだ

昭和34年(1959) 20歳(大学1年)・・・「自己改造・初体験」

  • 東京大学文科二類に入学した。
  • 担任は増田義郎。サークルは、テニス部、美術部、のちに空手部にも入部した。
  • 意識的に体力増強(=病的体質の改善=遺伝への復讐?)を図り、等々力駅前の柔道道場(俳優・小林旭が通っていた道場)にも通った。だが、兄・祐之との取り決めで、兄弟で家計費を分担することになり、スポーツに十分打ちこむわけにもいかなくなった。
  • 家庭教師は、山手線・東大崎の美容院(小学生)と寿司屋(早稲田受験生)の2軒を掛け持ちし、帰宅はいつも夜11時過ぎだった。美容院一家とは、家族ぐるみで長野の鹿教湯温泉へ湯治に行ったり、見習い美容師さんと「公認デイト」をするなど、和気あいあいのバイト生活が2年以上続いた。
◆ 出来事=1月、キューバ革命。EEC(欧州経済共同体)実施/4月、皇太子・美智子結婚/11月、安保阻止第8次統一行動、デモ隊国会構内に突入。

昭和35年(1960) 21歳(大学2年)・・・「自立・独立」

  • 奥沢2丁目(自由ヶ丘近く)の一軒家に、初めて下宿した(3畳)。
  • 父の死いらい、家を売却処分する話があり、兄弟間には「独立すべし」のムードが強かった。この下宿の女主人に見合いを勧められ、やむをえず相手の女性と喫茶店で会った。しかし、自主性のない無感動なお嬢さんだったため、すぐ終わりにした。
  • 高校時代から、どうも見合い話が多い。貧乏や苦学に自己陶酔している姿が、同情を買ったのかもしれない。初めての自立自活は楽しかった。ステレオやレコードを購入。プレスリー、シル・オースチン、アーサー・キット、ディーン・マーチンなどのLP盤をよく買って、聴いた。
  • 英語習得のため、モルモン教会(中目黒)で聖書研究会に通った。
  • 創価学会も研究した(兄・恒夫が入信した関係で)。
  • 柔道は体力不足が不利なので、空手に変更。東急空手道場(田園調布・田園コロシアム内)に通ったりした。このころ、ハイキング登山が流行していて。日光、足尾、塩山、箱根(金時峠)、谷川岳などを歩いた。
  • 数年前に死亡した同級生・小宮珠子の母が草月流の師範だったので、同級生・富岡節朗とともに、活け花を習いに行った(青山学院の裏)。「師範免状をおとりなさい」と言われたころ、勅使河原蒼風にオブジェの未来性などを訊ねる手紙を書いたが、やんわりあしらうような返事をもらった(緑インクの返信手紙が面白かった)。
  • 東大駒場祭で■サルトルの戯曲『恭しき娼婦』を上演した。演出・美術・パンフレット作成・広告取り・脇役などを務めた。このとき上院議員を演じた藤田太寅は、のちにNHKの解説委員になった。劇よりも、サルトル研究の時間が楽しかった。
  • 当時の私はノンポリ学生だったが、樺美智子追悼デモには参加した。概して、流行や社会運動よりも原理原則を尊重する傾向が強く、トインビーの文明論やサルトルの実存主義に傾倒していた。これらの思想は、40年以上経った今の私にも影響を与えている。
◆ 出来事=6月、安保阻止統一行動に560万人。全学連国会突入で、女子学生死亡。新安保条約自然成立/10月、浅沼委員長刺殺/ケネディ当選。

昭和36年(1961) 22歳(大学3年)・・・「さよなら両親」

  • 教養学科アメリカ分科に進級。担任・中屋健一。本郷へは数科目のみ受講し、ほとんどは駒場に通った。
  • 駒場寮仲間とはよく麻雀したり、渋谷の地下トリスバーなどで飲んだ。寮まで朝帰りすることも多かった(朝の豆腐屋で酔い覚ましも)。課題の読書は、シャーウッド・アンダーソン、フォークナー、メルビルなど。アメリカにも、難解だが、実験的で、サルトルにも通じる、社会批判的な作品があることを知った。
  • 中屋先生の推薦で、アメリカ大使館婦人クラブから奨学金(月3000円)をもらった。東大、京大各1人。ライシャワー夫人ハルさんらとの写真が、初めて新聞に載った。ほかに、日本育英会から同額を給付され、かつ、授業料免除だったので、生活はかなり豊かになった。
  • 東横百貨店で空気銃を購入し(約2万円)、雀を撃って、母と焼き鳥にしたことも。
  • 母・千枝が、喘息の注射で死亡した。61歳。
  • 緑ヶ丘のブリキ屋二階(3畳3000円)に移転した。引っ越し2回目である。共同トイレ・共同炊事場。自炊可能だったので、炊飯器・冷蔵庫などを購入して栄養料理を工夫し、快適に暮らした。
◆ 出来事=4月、アイヒマン裁判。ライシャワー駐日大使着任/5月、韓国で軍事クーデター/6月、ケネディ・フルシチョフ会談。池田首相訪米。

昭和37年(1962) 23歳(大学4年)・・・「言葉=お金?」

  • 就職先は、ソニー、三井物産、電通、日本電気など、外国事業部に先輩がいるところを狙っていた。当時は、まだ海外旅行ができない時代だったので、かえって外国にあこがれていたのである。その反面、(アメリカ大使館から奨学金をもらいながらも)学べば学ぶほどアメリカが嫌いになっていった。
  • 卒論は、『アメリカの軍事援助と経済援助の関係』(英文タイプ)。大国の横暴や暴力を指摘する意図が強く、我ながら批判意識が過剰で、いい点数ではなかった。
◆ 出来事=2月、東京都の人口1000万人突破/10月、キューバ危機。

<テレビ洋画の翻訳仕事を始める>

 このころ、テレビ洋画の翻訳台本作成の仕事を、兄・恒夫から紹介された。以後、これがメシの種になり、後日、フリーターになるきっかけにもなった。最初は、先輩の田畑稔に一次稿を収めていたが、すぐに一本立ちした。新橋の東北新社で映画を観ながらテープに録音し、アパートで翻訳作業をした(30分ものなら1週間以内)。
 東大久保の東音スタジオでは、翻訳者としてアテレコ作業にも立ち会った。当時の人気声優は、愛川欽也、若山絃蔵、池田昌子など。
 
 作品は、■シリーズもの(『ダコタの男』『アウターリミッツ』『海に挑む男・アクアナット』)や深夜劇場の洋画(フレッド・アステア、ジンジャーロジャースもの)など、在学中に5、60本の台本を書いた。不完全ながらスクリプト(英文台本)があったので、翻訳の苦労よりも、日本語表現や時間合わせの工夫に手間がかかった。結局、言葉の勉強になった。福岡朝日マラソンで、ニュージーランド選手・キーツの通訳をし、コクニー訛りに苦労した。
 博多芸者パーティーでは、べらべらしゃべる優勝選手(米人)の通訳に難航し、赤恥。このころ、兄・祐之が結婚した。このとき、妻・喜美子の夜間高校同級生の市毛幸子と親密になり、交際を開始した(1歳年上)。この2年後に同棲、9年後に入籍・出産、40年後に離婚となる。幸子の母とも、ほとんど同居することになった。  >>>>>新米・社会人になる...
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